氷点下40度の厨房で、命の温もりを作る
南極観測隊専属コック・宮本誠一、18年間の極地の食卓

宮本 誠一52歳
南極観測隊 料理担当(極地専属調理師) / 国立極地研究支援機構 観測隊支援部(架空)
神奈川県横浜市・キャリア18年
横浜市出身。調理師専門学校卒業後、都内の日本料理店や船上レストランで腕を磨く。34歳のとき、南極観測隊の公募に応募し、初めて昭和基地へ渡る。以来、越冬隊員として計7回の南極滞在を経験。極限状態における「食」の力を追求し続けるプロフェッショナル。
「食べることは、生きることの証明だ」
Interviewer
宮本さん、南極での調理というと、まず「食材はどうするのか」という疑問が浮かびます。実際、どんな環境で料理をされているのでしょうか?
宮本 誠一
昭和基地には、日本を出発するときに1年分以上の食材を積み込んでいきます。冷凍品、乾物、缶詰が中心ですね。ただ、南極に着いてしまえばそこで終わり。補充はほぼ効かない。だから最初に食材リストを作るとき、私は何週間もかけて献立を組み立てます。「この食材がなくなったら何で代用できるか」まで全部想定して。パズルみたいな作業です。でも、それが面白いんです。
Interviewer
1年分を見越して、すべて計画するわけですね。その中で一番難しい食材の制約は何ですか?
宮本 誠一
やはり「生もの」ですね。野菜は最初の2〜3ヶ月で底をついてしまいます。葉物なんて、南極に着いた翌週にはもう夢の食材ですよ(笑)。だから私は基地の一角に小さなスプラウト栽培コーナーを作りました。カイワレや豆苗を育てて、お刺身の端に乗せたり、ラーメンに入れたり。隊員さんたちが緑色のものを見た瞬間の顔……あれは忘れられません。大の大人が、目を輝かせるんです。
Interviewer
そもそも宮本さんが南極の調理師を目指したきっかけは何だったんでしょうか?
宮本 誠一
もともとは普通の板前を目指していました。東京の日本料理店で7年働いて、その後は船の上のレストランに移ったんです。客船で世界中を回る仕事で、そこで初めて「食が人を救う場面」を見た気がした。荒波で船酔いしている乗客が、温かいお粥を食べたとたんに少し落ち着く。あの光景が忘れられなくて。それで「もっと過酷な場所で料理をしてみたい」と思っていたときに、観測隊の公募を見つけたんです。
Interviewer
最初の南極行きを決めたとき、周囲の反応はどうでしたか?
宮本 誠一
妻には「正気ですか」と言われました(笑)。当時、子どもが小学校に上がったばかりで。でも妻は最終的には「あなたがやらなかったら、ずっと後悔する顔を見ることになる」と言って送り出してくれました。その言葉は今でも胸に刺さっています。あと、師匠の板前さんには「お前みたいに不器用なやつが極地で生き延びられるわけがない」と言われて、それが逆に火をつけましたね(笑)。
Interviewer
実際に南極に渡って、最初はどんな苦労がありましたか?
宮本 誠一
一番しんどかったのは、「孤独の密度」が全然違うということです。船の上は辛くても港に着けば外の空気がある。でも南極の越冬期間中は、ブリザードが来れば何日も基地から一歩も出られない。そんな閉塞空間の中で、隊員の方々はストレスがどんどん積み重なっていく。そのはけ口の一つが「食事」なんです。だから私が不機嫌な顔で料理を出したら、基地全体の空気が暗くなる。そのプレッシャーは、最初は本当に重かったです。
Interviewer
18年の中で、特に忘れられない出来事はありますか?人生の転機になったような瞬間というか。
宮本 誠一
3回目の越冬のときです。隊員の一人が、精神的に限界を迎えてしまった。食事を取らなくなって、部屋にこもるようになった。隊長と相談して、私が彼の部屋にご飯を持っていくことにしたんです。最初は扉越しに置いておくだけ。それを1週間続けたある夜、彼が扉を開けて「宮本さん、これ何のスープですか」と聞いてきた。鶏の生姜スープでした。それだけしか言わなかったけど、彼の目が少し生きていた。それを見たとき、私は廊下で泣いてしまったんです。
Interviewer
料理が、その方の心を救ったわけですね。
宮本 誠一
救ったなんておこがましい。ただ、扉を開ける理由を作れたんだと思います。「このスープは何ですか」という質問は、「もう少し話してもいいですか」という意味だったと私は勝手に解釈しています。料理って、言葉を使わないコミュニケーションなんですよね。特に南極みたいな閉じた世界では、匂いや温度や、器の形まで、全部がメッセージになる。あの出来事以来、私は「料理は伝達手段だ」という確信を持つようになりました。
Interviewer
極限の環境の中で、食材の工夫という面では特に印象に残っているエピソードはありますか?
宮本 誠一
5回目のとき、年越しそばの乾麺が切れてしまったことがあります。12月31日の数日前に気づいて、青ざめました。日本人にとって年越しそばがない年末なんて考えられないじゃないですか。でも、乾燥うどんが少し残っていた。それを細かく砕いて、だし汁に工夫を重ねて、「見た目も食感もそばに近いもの」を作ったんです。隊員さんたちに「今年は変わり年越し麺です」と出したら、全員「おいしい」と言って食べてくれた。後で種明かしをしたら大笑いになって。あの年越しは特別でした。
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Interviewer
南極では日本の行事食にこだわるんですね。
宮本 誠一
意識的にこだわっています。節分の恵方巻き、お花見の時期のお弁当スタイルの昼食、七夕の素麺、クリスマスのケーキ……カレンダーに合わせて「特別感」を出す。なぜかというと、南極では季節感がほぼないんです。外は白一色で、気温も大して変わらない。そういう場所で暮らしていると、時間の感覚が溶けていく。それが隊員の精神衛生に影響する。だから私は「今日はこの日だ」という記念日を食卓で作ることで、時間の流れを感じてもらおうとしているんです。
Interviewer
お仕事の中で、一番つらかった経験を教えていただけますか?
宮本 誠一
4回目の越冬中、私自身が体調を崩したことがあります。急性の胃炎で、3日ほど立ち上がれなかった。南極では医師が一人いるものの、代わりに料理を作れる人間が基地にいない。隊員さんたちが交代でレトルト食品を温めたり、パンを焼いたりしてくれたんですが……3日目の夕食に、みんなが「宮本さんのために作った」とカレーライスを持ってきてくれた。ぐちゃぐちゃのカレーで、玉ねぎが半分生で、じゃがいもが溶けていた(笑)。でも、あんなに美味しいカレーは食べたことがない。あの時初めて、自分がここに必要とされているんだと実感しました。
Interviewer
7回の越冬を経験して、調理師としての技術面でも変化はありましたか?
宮本 誠一
大きく変わりました。以前は「いかに完璧な料理を作るか」を追求していた。でも今は「いかに人の状態に合わせた料理を作るか」を考えています。隊員さんの表情、声のトーン、食べるスピード、残し方——全部が情報です。疲れているときは脂っこいものより消化のいいものを出す。喧嘩していそうな二人には、共同作業が生まれる鍋料理を出す。技術というより、観察力と直感が料理の核心になってきた感覚があります。
Interviewer
宮本さんにとって、南極での料理は日本の料理と根本的に何が違いますか?
宮本 誠一
日本では、料理人は「お客様に美味しいものを提供する」という立場です。でも南極では、私は「チームの一員」です。食事が隊員の体力と精神力に直結していて、それが観測の成果にまで影響する。だから私の料理の失敗は、科学的なデータの精度に関わるかもしれない。そう考えると、料理の意味の重さが全然違う。プレッシャーでもあるけど、こんなにやりがいのある料理の場所は他にない、と本気で思っています。
Interviewer
家族とのすれ違いや、長期不在の葛藤はどのように乗り越えてきましたか?
宮本 誠一
乗り越えた、と言い切れないんです、正直に言うと。子どもの入学式も、発表会も、いくつか行けませんでした。息子が中学生のとき、電話で「なんでお父さんはいつもいないの」と言ったことがある。その言葉が、ずっと頭から離れなかった。でも帰国するたびに、息子と一緒に台所に立って料理を教えるようにしたんです。今では息子も料理が好きで、大学では栄養学を学んでいる。回り道だったけど、料理が最終的に親子をつなぎ直してくれた気がします。
Interviewer
これから南極の料理担当を目指す若い人へ、伝えたいことはありますか?
宮本 誠一
料理の技術より先に、「人を見る力」を磨いてほしいです。南極は、人間がむき出しになる場所です。肩書きも学歴も関係なく、ただの「人間」として50人が閉じた空間で生きていく。その中で料理人は、全員の心と体の状態を読み続けなければならない。包丁の技術は後からついてくる。でも「あの人が今日しんどそうだ」と気づく感度は、日常の中でしか磨けない。コンビニのレジの人に感謝する。電車の隣の人の様子を気にする。そういう小さな習慣が、極地では命綱になります。
Interviewer
最後に、宮本さんにとって「食べること」とは何でしょうか?
宮本 誠一
「生きていることの証明」だと思っています。南極で、ブリザードが10日続いて、基地全体に沈黙が漂うとき——それでも人は腹が減る。どんなに落ち込んでいても、どんなに怖くても、体は食べ物を求める。その事実が、私はとても好きです。お椀に温かいものを注いだとき、湯気が立つ。その湯気を見ると、「ああ、今日もここに人間がいる」と思う。私はこれからも、その湯気を立て続けたい。それが私の仕事の全てです。
インタビューを終えて、宮本さんは台所に立ち、何も言わずに湯を沸かし始めた。お茶を入れてくれるのだろう。その背中には、18年分の南極の風が、静かに刻まれているように見えた。氷点下40度の闇の中で、彼が作り続けた湯気は、ただの蒸気ではなかった。それは、人間が今日も生きているという、もっとも素朴で力強い証だったのかもしれない。
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