線一本に、世界が宿る
20年間、主役になれない場所で「本物の空気」を描き続けた背景アシスタントの流儀

桐嶋 朔夜41歳
マンガ背景アシスタント / フリーランス(複数の漫画家に専属契約)
東京都杉並区・キャリア20年
美術大学を中退後、22歳でアシスタント業界に入る。現在は週刊少年誌・青年誌の人気作品を複数掛け持ちし、「あの街並みを描いているのは誰だ」と業界内で密かに名を知られる存在。東京・杉並の古いアパートの一室を仕事場に、今日も定規とGペンを握り続ける。
「「背景は空気だ。読者が息を吸えるかどうか、それだけを考える」」
Interviewer
桐嶋さんの仕事場に初めてお邪魔したのですが、壁一面の写真資料に圧倒されました。これは全部、自分で撮影されたものですか?
桐嶋 朔夜
ほとんど自分で撮ったものですね。路地裏の排水溝の蓋、古いアパートの錆びた郵便受け、商店街のシャッターの質感……漫画に使うかどうかわからなくても、気になったら撮る。カメラを持って街を歩くのは、もはや仕事なのか趣味なのかわからなくなってますよ(笑)。先週も深夜に荻窪の駅裏を三時間歩き回って、街灯の光が濡れたアスファルトに反射する角度を確認しに行きました。
Interviewer
そこまでやるんですね。でも、背景なら写真をトレースすれば早いんじゃないかと思う読者もいるかもしれません。
桐嶋 朔夜
それが一番の誤解でね。写真をそのまま漫画に落とし込むと、「死んだ背景」になるんです。漫画の線というのは情報を取捨選択したものでしょう。リアルな写真の情報量をそのまま持ち込むと、キャラクターが負ける。読者の目が「どこを見ればいいのか」迷子になる。だから、何を省いて、何を残すか、その判断が全てなんです。たとえば繁華街のシーンで、看板は15枚あっても3枚だけ描く。でも、その3枚は絶対に本物の質感で描く。そのバランスが「空気」を生むんです。
Interviewer
この仕事を始めたのは22歳のとき、美術大学を中退されてからだと聞きました。中退という選択は、どういう経緯で?
桐嶋 朔夜
油絵の専攻だったんですが、二年目に完全に行き詰まりました。自分が何を描きたいのかわからなくなって。教授に「君の絵は技術はあるが、何かが足りない」と言われ続けて。そのころ、息抜きに読んでいた漫画の背景の緻密さに突然気づいたんです。ある作品の、古い洋館の廊下のシーン。光の差し込み方、床の木目の歪み、ドアノブの影。それがあまりにも精巧で、「これを描いた人間は何者だ」って震えが来た。それで初めて「背景アシスタント」という職業の存在を知って、大学を辞めました。
Interviewer
親御さんの反応はどうでしたか?
桐嶋 朔夜
父が建築家でして。「漫画屋の手伝いか」と最初は鼻で笑われましたよ。でも数年後、僕が担当した作品の単行本を見せたとき、父が黙ってページをめくり続けて、「この建物の透視図法、正確だな」と一言だけ言ったんです。褒め言葉なのか批評なのかわからない(笑)。でも、父に認めてもらいたくて線を引き続けた部分は、確かにあったかもしれない。
Interviewer
アシスタントの仕事というと、過酷な環境のイメージがありますが、実際はどうでしたか?
桐嶋 朔夜
最初の五年は、正直地獄でした。週刊連載の先生のスタジオに住み込みで、締め切り前は三日寝ないのが当たり前。でも一番きつかったのは睡眠じゃなくて、「自分が見えない」感覚でした。僕がどんなに丁寧に描いても、読者にはわからない。誰も「この背景すごい」なんて言わない。28歳のとき、深夜のコンビニで自分が担当した作品の発売日に立ち読みしたら、横にいたサラリーマンが「この漫画の主人公かっこいいよな」って友人に言ってて。僕が描いた背景の中で、その主人公が動いてるのに。笑えるんだか泣けるんだか、その場で苦笑いしましたよ。
Interviewer
その「見えない」感覚が、転機になったんでしょうか?
桐嶋 朔夜
転機はもう少し後です。29歳のとき、担当していた先生の連載が突然打ち切りになって、スタジオが解散した。僕も職を失った。途方に暮れて、ファミレスで履歴書でも書こうかと思いながら、持っていた自分のスケッチブックを眺めていたんです。そのとき、後ろの席に座った老夫婦が僕のスケッチブックを覗き込んで、おばあさんが「あら、昔の吉祥寺みたいだわ。懐かしい」って言ったんです。描いていたのは記憶の中の商店街で、別に吉祥寺を意識したわけじゃない。でも、その人の記憶と、僕が描いた線がつながった。そのとき初めて、「背景は読む人の記憶を呼び覚ます装置なんだ」って気づいた。見えなくていい。でも、確かに届いている。それがわかった瞬間に、全部変わりましたね。
Interviewer
その後、仕事への向き合い方が変わったと?
桐嶋 朔夜
劇的に変わりました。それまでは「先生の要望に応える」が仕事だと思っていた。でもそれからは、「読者の無意識に届ける」が仕事になった。たとえば、キャラクターが失恋するシーンがあるとします。先生の指示は「公園のベンチ」だけ。でも僕は、落葉した木を遠くに一本だけ描いて、ベンチの影を少し長めにとって、地面の砂利の粒を粗くする。セリフには一切関係ない。でも読者の体が、ちゃんと「秋の冷たさ」を感じるはずなんです。
Interviewer
担当している漫画家の先生との関係で、印象に残っているエピソードはありますか?
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桐嶋 朔夜
今一番長く組んでいる宮藤先生という方がいるんですが、この方が面白くてね。最初に仕事を頼まれたとき、「背景は黒子だから、絵柄を合わせてください」と言われたんです。ところが三か月後に、「桐嶋さんの背景に私のキャラクターを置くと、なぜかキャラクターが生きる気がする」とおっしゃって。作家さんに「背景と対話している」と感じてもらえたのは、あのとき初めてでした。それ以来、宮藤先生とは毎話、ネームの段階から「この場面の空気感」を話し合うようになった。背景アシスタントがネームの打ち合わせに参加するなんて、普通はないですよ(笑)。
Interviewer
デジタル化の波が漫画業界にも押し寄せていますが、桐嶋さんは今もアナログで描かれているんですか?
桐嶋 朔夜
半分半分ですね。下絵と透視図の計算はデジタルでやります。ソフトは便利だし、修正も楽。でも仕上げの線は今もGペンで引きます。デジタルの線って、均一なんですよ。きれいすぎる。人間が線を引くとき、息を吸う瞬間と吐く瞬間で微妙に力が変わる。その揺らぎが、線に「生きてる感じ」を与えると思ってる。街の壁だって、工場で作られた均一なものじゃない。雨が当たって、日光が当たって、人が触れて、歪んでいく。その不均一さを、デジタルの完璧な線では出せない部分がある。まあ、頭が固いと言われればそれまでですが(笑)。
Interviewer
この仕事で、一番報われたと感じた瞬間を教えてください。
桐嶋 朔夜
三年前ですかね。担当していた作品が完結して、その最終話に読者から届いたファンレターを先生が見せてくれたんです。その中の一通に、「この作品の世界の空気が好きでした。登場人物と同じ街に住んでいる気がしていました」という言葉があって。「世界の空気」。それは僕が20年間、ずっと作ろうとしてきたものだった。送った人は背景アシスタントの存在なんて知らないし、これからも知らない。でも、その人の体の中に、僕が描いた空気が届いていた。それがわかって、深夜の仕事場でひとりで泣きましたよ。情けないですけど(笑)。
Interviewer
最近、アシスタントを目指す若い人も増えていると聞きます。後進に何か伝えるとしたら?
桐嶋 朔夜
まず「街を歩け」ですね。教室の中だけで描ける背景なんてない。あと、「何かを見ろ」ではなく「なぜそう見えるかを考えろ」と言いたい。夕暮れがなぜ切ないかを、線で説明できないといけない。それは感情の問題じゃなくて、光の角度の問題で、影の長さの問題で、色温度の問題です。感性と理論は対立するものじゃない。最後にひとつ。アシスタントの仕事を「修行」だと思わないでほしい。今描いているこの線が、誰かの記憶に20年後も残る可能性がある。それはもう、「修行中」ではなく「本番」なんです。
Interviewer
桐嶋さん自身は、漫画家として独立しようと思ったことはなかったですか?
桐嶋 朔夜
ないと言えば嘘になります。30歳過ぎたころ、一度だけ読み切り原稿を描いて持ち込んだことがある。担当さんには「背景は圧倒的なのに、キャラクターと物語が弱い」と言われました(笑)。正直、その言葉はすごく腑に落ちた。僕は人間を描くより、人間が生きている世界を描くことの方が好きなんだとわかった。世の中には「主役を描く人」と「主役が生きる場所を作る人」がいる。僕は後者の人間だった。それは才能の有無じゃなくて、たぶん性質の話だと思っています。
Interviewer
これからの目標を聞かせてください。
桐嶋 朔夜
ひとつ、夢があって。いつか「背景だけの画集」を出したいんです。キャラクターを一切入れない、背景だけのコマを集めた本。普通は誰も出してくれないでしょうけど(笑)。でも、あの六畳間の下宿の窓から見えた夕暮れ、雨の日の商店街のシャッター、深夜のコンビニの駐車場。誰も気づかないまま消えていく「物語の空気」を、ちゃんと一冊の本として残したい。それが僕の、この仕事への最後の敬意のつもりです。
Interviewer
最後に、桐嶋さんにとって「プロフェッショナル」とはどういう意味ですか?
桐嶋 朔夜
「見えないことを誇れる人間」だと思います。僕の仕事は、うまくいけばいくほど読者に気づかれない。没入してもらえれば、背景なんて意識されない。でも、もし読者が物語を読み終えた後に、理由はわからないけど「あの世界にいた気がする」と感じてくれたなら、それは僕の線が仕事をした証拠です。主役になれない場所で、誰よりも本気でいる。それがプロフェッショナルだと、20年かけてやっとわかってきた気がします。
取材を終え、桐嶋さんの仕事場を後にするとき、外の夕暮れがやけに鮮明に見えた。電線の影、濡れた路面の反射、遠くの公園の木の輪郭。それまで「ただの風景」だったものが、誰かの線によって選ばれ、届けられてきたものだという気がして、足が少し止まった。漫画を読む体験とは、作者とキャラクターだけで成立しているのではない。知らない誰かが深夜に引いた一本の線が、読者の体に「空気」として染み込んでいる。桐嶋朔夜という男は今日も、主役になれない場所で、誰よりも本物の世界を作り続ける。
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