手が届く奇跡を、形にする
義肢装具士・宮本誠一が語る「もう一つの体」を作る使命

宮本誠一51歳
義肢装具士 / 株式会社リム・アトリエ(架空)
大阪府堺市・キャリア27年
大阪府出身。理学療法士を目指すも、義肢装具士の世界に偶然触れたことで人生が一変。国家資格取得後、ドイツのミュンヘンで3年間修業を積み、帰国後に独立。現在は年間150件以上の義肢・装具を手がけるかたわら、後進育成にも力を注ぐ。
「「体は諦めない。だから私も諦めない。」」
Interviewer
宮本さん、今日は工房の中で取材させていただきありがとうございます。まずお聞きしたいのですが、義肢装具士という職業を最初に知ったのはいつのことですか?
宮本誠一
もともとは理学療法士になるつもりで、大阪の医療系専門学校に入学したんです。でも2年生のとき、実習でリハビリ病院に行って、廊下で一人の義肢装具士が患者さんの義足を調整している場面に出くわした。その人が患者さんの膝の角度を指で測りながら、工具でソケットをほんの少し削る。すると患者さんがすっと立ち上がって、「あ、痛くない」って言ったんです。たった30分の作業で、その人の歩き方が変わった。それを見て、体の中に雷が落ちたような感覚がしました。
Interviewer
理学療法士の道を途中で変えるというのは、大きな決断だったと思います。周囲の反応はどうでしたか?
宮本誠一
親には猛反対されましたよ(笑)。「義肢装具士って何や、食べていけるんか」って。当時、義肢装具士の国家資格制度がまだ新しかったので、知名度も低かった。でも僕は翌年、義肢装具士の専門学校に入り直した。学費が二重にかかって、アルバイトを三つ掛け持ちしながら通いましたね。深夜に工場で働いて、朝から学校へ行く。体はきつかったけど、不思議と辛いとは思わなかった。早く現場に立ちたくて、ただそれだけでした。
Interviewer
資格取得後は、すぐ現場に出られたんですか?
宮本誠一
堺市内の義肢装具製作所に就職しました。でも最初の2年間は、先輩の仕事を見ているだけで終わった。石膏取りのサポートと、型の整形補助ぐらいしかやらせてもらえない。当然ですよ、人の体の一部を作るんだから。でもその2年間に、先輩の手つきをとにかく観察した。どの角度で力を入れるか、どこを削れば歩行バランスが変わるか。目で盗む、という感覚ですね。そしてある日、先輩が「宮本、今日はお前が採型をやれ」と言った。手が震えたのを今でも覚えています。
Interviewer
その後、ドイツで修業されたとお聞きしました。何がきっかけだったんですか?
宮本誠一
仕事を始めて5年目に、ドイツから来た義肢装具士が日本でセミナーをやったんです。そこで見た技術が、自分たちとは全然違った。膝継手の設計の考え方、ソケットの適合のアプローチ、何もかもが洗練されていて。当時、ドイツはオットーボック社を筆頭に義肢工学の最先端を走っていた。「ここに行かなければ、自分は半人前のまま終わる」と思いました。日本語しか話せないのに、貯金をはたいてミュンヘンに飛んだんです。28歳のときでした。
Interviewer
言葉も文化も違う異国で、3年間修業するというのはどんな体験でしたか?
宮本誠一
最初の半年は本当に地獄でした。ドイツ語がわからない、図面も説明書も読めない。現地の職人たちに「なんで日本人がここにいるんだ」という空気を感じることもあった。でも、工房では手が全部語ってくれるんです。言葉がわからなくても、手を動かして仕事を見せれば、相手も職人だからわかってくれる。ある日、僕が日本式の採型技術で型を取ったら、ベテランの親方が「これは何だ」と興味を持ってくれた。それが転機で、急に仲間として扱ってもらえるようになりました。技術って、国境を超えるんですよね。
Interviewer
帰国後に独立を決めたのはなぜですか?既存の施設に戻るという選択肢もあったはずですよね。
宮本誠一
ドイツで学んだのは技術だけじゃなくて、「義肢は工業製品じゃない」という哲学だったんです。患者一人ひとりの生活スタイル、趣味、夢、そこまで深く関わって初めて、本当に合う義肢ができる。でも大きな組織では、どうしても一人に使える時間に限界がある。僕はもっと時間をかけたかった。少人数でも、一件一件に全力を注ぎたかった。だから堺に小さな工房を作った。最初の1年は赤字でしたけど、後悔は一度もなかったですね。
Interviewer
宮本さんのキャリアの中で、最も辛かった経験を聞かせてもらえますか?
宮本誠一
独立して3年目に、交通事故で右腕を失った19歳の大学生、田中くん(仮名)を担当したことがありました。彼はギタリストを目指していて、事故後は部屋に閉じこもって、リハビリにも来なくなっていた。ご両親に連れられて初めて来た日、彼は僕の目を見なかった。「義手なんてつけても意味ない」ってぽつりと言った。その言葉が、刺さりました。僕はその日から、義手の製作と並行して、ギターを弾くための義手というものを本当に実現できるか、独自に研究し始めたんです。
Interviewer
それはどんな義手だったんですか?
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宮本誠一
既製品のアタッチメントでは、彼が理想とする弦の押さえ方ができなかった。だから僕は指の動きを何度も観察して、義手の先端部分を一から設計し直した。ドイツで学んだ設計技術と、日本の精密加工技術を組み合わせた。試作を10回以上作り直して、完成まで8ヶ月かかりました。彼が初めてその義手でギターのコードを鳴らした日……工房の中で声を上げて泣いたんです、彼が。僕もこらえきれなかった。あの音は、一生忘れられない。今でも彼はステージに立っていますよ。
Interviewer
その経験が、今の宮本さんの仕事の核心にあるんですね。義肢を作るとき、宮本さんはどんなことを一番大切にしていますか?
宮本誠一
「その人がどんな人生を生きたいか」を聞くことです。初回の相談では、2時間から3時間かけて話を聞く。義肢の技術的な話は後回しで、まずは「好きなことは何か」「どこに行きたいか」「誰と何をしたいか」を聞く。義肢はゴールじゃなくて、手段なんです。海に行きたいなら、海水に耐える素材を選ぶ。お子さんと公園で遊びたいなら、走れる設計にする。その人の「やりたいこと」を形にするのが、僕らの仕事だと思っています。
Interviewer
一方で、どんなに頑張っても限界がある、という場面もあると思います。そういうとき、宮本さんはどう向き合いますか?
宮本誠一
ありますよ、もちろん。技術的にできないことも、保険制度上の壁でベストな素材が使えないこともある。そういうとき、一番やってはいけないのは患者さんに嘘をつくことだと思っています。「できます」と言って期待させて、結果を出せないのが最悪。だから正直に話す。「今の技術では、ここまでしかできない。でも、この範囲の中で最高のものを作る」と。その正直さが、長い信頼関係につながっていく。10年後、20年後も同じ人と付き合っていくわけですから。
Interviewer
義肢装具士という仕事は、患者さんとの関係がとても長期的なものになりますね。
宮本誠一
そうです。子どもの頃から来ている患者さんが、今は親になって、子どもを連れてきてくれることもある。成長に合わせて義肢を作り替えながら、人生を並走していく感じです。「先生、就職決まりました」「結婚します」「子どもが生まれました」、そういう報告を受けるたびに、ああ、この仕事をしていて良かったと思う。僕が作った義足が、その人の人生のあらゆる場面に立ち会っているんだと思うと、胸が熱くなります。
Interviewer
逆に、患者さんを見送ることもありますよね。長年関わってきた方が亡くなるということも。
宮本誠一
……それは、何度経験しても慣れないですね。数年前に、20年以上おつきあいしていた70代の男性が亡くなった。最後の義足を納品したのが、亡くなる2週間前でした。ご家族から連絡をいただいて、「父が最後まで、宮本さんに作ってもらった足で歩きたいと言っていました」と言われた。泣きながら電話を切って、工房で30分動けなかった。でも同時に、「職人冥利に尽きる」という言葉が浮かんだ。その人の最後の歩みに、自分の仕事が寄り添えた。それ以上の誉れはないと思いました。
Interviewer
後進の育成にも力を入れていらっしゃるとお聞きしました。若い義肢装具士に、一番伝えたいことは何ですか?
宮本誠一
「測定値を信じすぎるな」ということです。採型の数値、角度、計算式——これは大切です。でも数値に収まらないものが、人間の体にはある。同じ切断面でも、その人の筋肉の緊張具合、心理状態、その日の体調で、フィット感は変わる。だから手で触れて、目で見て、患者さんの表情を読む。センサーは自分の手と目と経験だと思っています。AIや3Dスキャナーも素晴らしいツールですが、最後は人間が人間に向き合う仕事だということを、忘れてほしくない。
Interviewer
最後に、宮本さんにとって義肢装具士という仕事とは、一言でいうと何でしょうか?
宮本誠一
「可能性の翻訳」だと思っています。患者さんの頭の中にある「こうなりたい」「こうありたい」という想いを、形ある物に翻訳する仕事。言葉を物にする職人、という感じでしょうか。どんな状況でも、人は何かを望んでいる。その望みを受け取って、できる限り忠実に形にする。それが僕にとっての義肢装具士です。27年やってきて、まだ自分は翻訳者として未熟だと感じる。だからまだ、続けられるんだと思っています。
取材を終え、工房を出るとき、宮本さんが仕上げたばかりの義足を棚に並べた。淡い肌色のシリコンが、夕陽を柔らかく反射していた。その足は明日、誰かの体の一部になる。誰かの歩みになる。誰かの夢の、一歩目になる。27年間、宮本誠一は黙々とその奇跡を作り続けてきた。「体は諦めない。だから私も諦めない」——その言葉が、工房の空気に静かに溶けていた。
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