無重力の食卓に、地球の温もりを届ける
宇宙という極限の環境で問い続ける——「食べること」の本質とは何か

蒼井勇斗44歳
宇宙食開発者 / 食品宇宙工学研究員 / 株式会社コスモ・ヌトリション・ラボ
茨城県つくば市・キャリア18年
北海道帯広市出身。農業家の家庭に育ち、「食べものが人をつくる」という信念を幼少期から持つ。東北大学農学部を経て、宇宙航空研究開発機構(JAXA)関連の民間研究機関に就職。現在は国際宇宙ステーション(ISS)向けおよび将来の月面・火星探査向け宇宙食の研究開発を主導している。
「「食卓は、どこにあっても宇宙の中心だ」」
Interviewer
桐嶋さん、今日はお時間をいただきありがとうございます。まず率直に伺いたいのですが、「宇宙食開発者」という職業に就こうと思ったきっかけは何だったんでしょうか?
蒼井勇斗
笑ってしまうようなきっかけなんですけど、大学3年生のときに図書館でたまたま手に取った一冊の本なんです。宇宙飛行士の手記で、その中に「宇宙食はまずい。でも、仕方ない」という一文があって。私、それを読んだ瞬間に怒ったんですよ(笑)。なんで仕方ないんだって。人が生きていく上でこれほど大切なことが、「仕方ない」で片付けられているのが許せなかった。農家の子として育った私には、食べ物を粗末にする発想が根本的に受け入れられなかったんだと思います。
Interviewer
農家のご出身なんですね。それが今の仕事の根っこにある?
蒼井勇斗
もう完全に根っこですね。父は豆農家で、朝5時に起きて畑に出て、夜は食卓でその日の豆について語るような人でした。「今日の土の感触はこうだった」「この豆は甘みが足りない、なぜだろう」って、毎晩まるで研究発表みたいな夕食で(笑)。食べることが、私にとって最初から科学だったんです。感覚と観察と仮説の繰り返し。今やっていることと、本質的には変わっていないと思います。
Interviewer
宇宙食というと、チューブ入りのペースト状の食べ物や、フリーズドライのものを想像するんですが、実際の開発はどんな作業なんでしょうか?
蒼井勇斗
イメージはだいぶ昔のものですよ(笑)。今の宇宙食は、見た目だけなら地上の食事とほとんど変わらないものも多い。でも開発のプロセスは本当に複雑で、「おいしくつくる」だけでは絶対に通らないんです。まず宇宙環境への適合性——無重力での食べやすさ、パンくずのような浮遊物が出ないこと、宇宙機内のシステムを腐食しない材料か。次に栄養管理、一食あたりのカロリーやビタミン・ミネラルの精密なコントロール。そして長期保存性——常温で1年以上品質を保てるかどうか。これら全部を同時に満たしながら、「おいしい」を目指す。矛盾のパズルを解き続ける仕事です。
Interviewer
その中でも特に難しいのはどの部分ですか?
蒼井勇斗
味覚の変化、ですね。これは一般にあまり知られていないんですが、宇宙に行くと飛行士の味覚が変わるんです。無重力では体液が頭部に集まって、慢性的に鼻が詰まった状態になる。地上でわかめの味噌汁が大好きだった飛行士が、宇宙に行ったら全然おいしく感じられなかった、という報告が多数あります。だから私たちは、地上で飛行士本人に試食してもらったデータだけを信じてはいけない。「宇宙にいるあなたの舌」のために設計しなければならない。見えない相手の、変化した感覚のために料理をつくるって、かなり哲学的な問いだと思いませんか。
Interviewer
哲学的な問い、ですか。桐嶋さんが仕事を通じて感じる「食べること」の意味とは、どういうものでしょう?
蒼井勇斗
宇宙に携わるようになってから、私の中で答えがはっきりしてきたことがあります。食べることって、栄養を補給することじゃないんですよね。少なくとも、それだけじゃない。ISS滞在中の飛行士へのアンケートで、精神的なストレスが最も下がる瞬間はいつかという質問に、多くの人が「食事をしているとき」と答えている。母国の料理を食べると、地球を感じる。帰る場所を思い出せる。宇宙食は、栄養のパッケージじゃなくて、人間性を繋ぎ止める錨なんだと気づいたとき、この仕事の重さが全然違うものになりました。
Interviewer
18年のキャリアの中で、最大の転機はどんな出来事でしたか?
蒼井勇斗
7年前、担当していた飛行士の山瀬さん——架空の名前で呼ばせてもらいますが——が長期ミッションから帰還した直後のことです。私たちの研究所に来てくれて、話をしてくれたんですが、彼が「桐嶋さん、宇宙で一番辛かったのは、母の手料理を想像してしまうことでした」と言ったんです。私が開発した食事を毎日食べていたのに、それが「寂しさを思い出させるもの」になってしまっていた。その言葉が刺さって、しばらく眠れませんでした。
Interviewer
それはどんな意味で刺さったんでしょう?
蒼井勇斗
私は技術的な完成度を高めることに夢中になっていた。栄養バランス、保存性、食感の再現、全部数字で評価できることばかり追いかけていた。でも山瀬さんの言葉は、「記憶」や「感情」という、数字にならないものの話だった。宇宙食に欠けているのは、カロリーでも食感でもない、「物語」なんだと。その日を境に、私の開発哲学が180度変わりました。以来、私は飛行士一人ひとりと何時間もかけて話します。子供の頃の好きな食べ物、誕生日に食べていたもの、失恋したときに食べたもの。その人の「食の履歴書」をつくることが、今や開発の出発点なんです。
Interviewer
個人の食の記憶を宇宙食に組み込むというのは、具体的にはどういう形になるんですか?
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蒼井勇斗
たとえば、ある飛行士が「祖母がつくってくれたすいとん汁が心のよりどころだ」と言ったとします。私たちはそれを聞いて、そのすいとん汁を宇宙仕様に変換するための研究を始める。小麦粉の生地の食感を、無重力でも損なわない加工方法は何か。出汁の香り成分を封じ込めて、開封した瞬間にふわっと広がるにはどうすればいいか。技術的な挑戦としては非常に難しいんですが、その飛行士が宇宙で「おばあちゃん、元気かな」と思いながらそれを食べてくれると想像すると、どんな困難も乗り越えられる気がして。
Interviewer
一方で、苦しかった失敗の経験もあると思うんですが、印象に残っているものはありますか?
蒼井勇斗
3年前、初めて月面探査ミッション向けの食事設計プロジェクトに参加したときのことです。月は宇宙ステーションと違って、補給物資が定期的に届かない。片道数日かかる。つまり、完全自給に近い食料システムを考えなければならない。私は意気込んで、栄養的に完璧な「最小限の食」を設計しました。種類を絞って、エネルギー効率を最大化して。でも倫理審査の場で、宇宙心理学者の先生に一言言われたんです。「これを食べ続けた人間が、5年後に地球に戻ってきたとき、何を食べたいと思うでしょうか」って。
Interviewer
それは……重たい問いですね。
蒼井勇斗
絶句しました。私の設計は「生き延びること」しか考えていなかった。でも人間は生き延びるだけじゃなくて、「生き続けたいと思うこと」が必要なんです。食の多様性、喜びの余地、選択の自由——そういうものを剥奪された人間の精神がどうなるか、私は考えていなかった。その後、半年かけてプロジェクトを完全にやり直しました。「効率の食」から「意志の食」へ。今でも最大の学びとして胸に刻んでいます。
Interviewer
今、研究所で特に力を入れている取り組みはありますか?
蒼井勇斗
二つあります。一つは「宇宙農業との統合」——将来の月や火星の基地内で、実際に野菜を栽培して食べるシステムの開発です。閉鎖環境で育てられる植物の選定から、収穫した食材を調理する器具の設計まで含めた、トータルな「食のエコシステム」をつくろうとしています。もう一つは「食のセラピー」研究です。長期ミッションで精神的に消耗した飛行士に、特定の食事がどう作用するかを神経科学者と一緒に研究しています。食べることが、心の治療になりうるという仮説を、データで証明したい。
Interviewer
プライベートでは、どんな食事をされているんですか?ご自身が開発した宇宙食を食べることも?
蒼井勇斗
(笑)試作品は毎日食べますよ。それが仕事ですから。でも家に帰ったら、できるだけ「手間のかかるもの」を食べるようにしています。わざと不便な方法で料理する。包丁で野菜を切る音、鍋が沸く蒸気、フライパンの油が跳ねる感覚——そういう「地上ならではの無駄」を、意識的に楽しむようにしている。宇宙食は究極的に、すべての手間を省いて合理化したものです。だからこそ、手間そのものが人間にとって何なのかを、忘れないようにしていたい。娘とよく一緒に餃子を包むんですけど、それが最高の息抜きです。
Interviewer
娘さんも食に興味を持っていますか?
蒼井勇斗
今11歳で、宇宙よりもお菓子に夢中なんですが(笑)、先日初めて「ママが宇宙人に食べさせてる」って友達に話したらしくて、すごく誇らしそうにしていたと聞いて。それだけで、この仕事を続けてきてよかったと思えましたね。難しい理屈じゃなくて、子供が「すごい!」って思える仕事をしていたい。娘にはいつか、宇宙ではなく地球のどこかで、誰かのために料理をする人になってほしいとも思っています。宇宙食を開発している私が言うのも変ですが(笑)、食卓っていうのはやっぱり、向かい合う人の顔が見えるところに本質があると思うから。
Interviewer
最後に、これからこの分野を目指す若い人たちへ、メッセージをいただけますか?
蒼井勇斗
宇宙食の研究者になりたいなら、まず地球の食を愛してほしい。市場に行って、旬の野菜の匂いを嗅いでほしい。おばあちゃんの料理を食べて、なぜおいしいのかを考えてほしい。宇宙はすべての「当たり前」を奪う場所です。重力も、空気も、季節も、家族の笑顔も。だから宇宙の食を設計するためには、地球で失われるものが何かを骨の髄まで知らなければならない。技術は後からついてくる。でも「食べることへの敬意」は、最初から持っていないと、絶対に本物の仕事はできないと思っています。宇宙は遠い場所だけれど、そこで生きている人の心は、私たちと同じ地球の土の上にある。それを忘れない人に、ぜひこの仕事に来てほしい。
インタビューを終えて実験室を出ると、夕暮れのつくばの空が茜色に染まっていた。蒼井勇斗が開発した食事は今この瞬間も、地上400キロメートルの高度を時速約2万8000キロメートルで駆け抜ける宇宙ステーションの中で、誰かの口に入っているかもしれない。栄養の計算式でも、保存技術の結晶でもなく——それは一人の農家の娘が、見知らぬ誰かのために込めた「帰る場所の記憶」だ。宇宙食という極限の挑戦の中に、食の、そして人間の普遍的な本質が宿っていた。
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